「逃げ上手の若君」に登場する楠木正成の運命について多くのファンが注目しています。作中で彼の最期が描かれるのは、一体どの巻のどの話なのでしょうか?
この記事では、楠木正成がどの段階で物語から去るのか、その詳細に迫ります。彼がどのようにして最終的に舞台から姿を消すのか、その背景にある歴史的事実と共にご紹介しましょう。
『逃げ上手の若君』における楠木正成の最期の章
楠木正成の死亡は13巻114話での悲劇
『逃げ上手の若君』で楠木正成が命を落とすのは13巻の114話で描かれます。彼の死は湊川の戦いでの自害によるもので、この章で彼の運命が締めくくられます。
この戦いでは、楠木正成は陸上からの足利直義軍を迎え撃ちますが、海路からの大軍によって新田義貞軍が策略にはまり、状況は一変します。これにより楠木正成の軍は孤立し、最終的には圧倒的な敵の数に抗しきれず、楠木正成は最後の手段として自害を選びます。
楠木正成の遺志とその影響
楠木正成の自害後、彼の遺志は息子や子孫に受け継がれます。息子の楠木正行は父の影響を受け、多くの戦で活躍しますが、四條畷の戦いで敗れて命を落とします。楠木一族はその後も南北朝の争いに大きな役割を果たし続け、孫の楠木正勝は応永の乱にも参加しました。
楠木家はその後も時折室町幕府に反旗を翻すなど、武士としての誇りを持って戦い続けたと記録されています。
楠木正成の運命的な最後までの道のり
鎌倉幕府に対する初期の戦い
楠木正成はもともと河内の地を拠点にしていた武士で、鎌倉幕府に仕えながら反抗勢力を鎮圧していました。しかし、倒した敵の残党を組み入れることで力を増し、次第に幕府から脅威とみなされます。後醍醐天皇の反幕府活動に共鳴し、やがて幕府との全面的な対立へと進んでいきます。
後醍醐天皇への全力支援とその結果
後醍醐天皇が鎌倉幕府に捕らえられた際、楠木正成は赤坂城や千早城を拠点に鎌倉幕府との戦いを展開しました。その抵抗は他の武士たちにも影響を与え、幕府からの離反者が出始めます。この時、足利高氏が幕府に反旗を翻し、京都の六波羅探題を攻略するなどして幕府を滅ぼしました。
建武の新政での地位と活動
鎌倉幕府滅亡後、後醍醐天皇を中心に建武の新政が始まります。楠木正成はその功績を認められ、多くの役職と領土を授与されます。彼は新政のもとでさらなる活動を展開し、北条家の残党の討伐などに尽力しました。
足利尊氏との最後の戦い
後醍醐天皇の政治に疑問を持った足利尊氏が反乱を起こし、新田義貞を破って京都に進軍します。楠木正成は足利尊氏の実力を評価しつつも、和睦の提案が却下されると、結局は湊川の戦いで足利軍と激突し、敗北後に自害に至ります。